今日の書・6〜避雷針
どうも、本日はいかがお過ごしでしたでしょうか、貘宇です。
10月25日水曜日、今日は皆さまご存知、欅坂46の5thシングル『風に吹かれても』の発売日です。
僕はこう見えてアイドルヲタクなので、一応欅坂の方もチェックしていて、本作についても発売前からMVや音楽番組など可能な限り追いかけて観ていました。
今回のこの『風に吹かれても』は、これまで作り上げてきた(あるいはきてしまった)欅坂のイメージ、よく言われているような「笑わないアイドル」というある種のレッテルを覆すような意欲作となっていて、MVが先行公開されると、ファンの間でも「てち(センターの平手友梨奈さんの愛称)が笑った!」とか「てちのショートヘアかっこいい!眼鏡も似合ってるし、ボーイッシュでかわいい!」とか大きな話題となっていたように何とはなしに僕の耳にも入っています(笑)
作詞は毎度のごとく秋元康大先生、作曲はシライシ紗トリさんという方で、元々はあまり女性アイドル系の仕事はしていない方でしたが、最近はそういう方面での仕事もなさっていて、Wikipediaで見たところ、SCANDALや私立恵比寿中学やアイドルネッサンスなどにも楽曲提供等されているようで、僕もごく稀に名前を目にする機会などはありましたが、一番最近それと認識したのは、ちょうど一年ほど前に発売された、AKB48の46thシングル『ハイテンション』でした。
僕のアイドルヲタク遍歴というのもいつかお話することになるかと思うのですが、元来「楽曲厨(=楽曲的な面白さや多様性を中心軸として重視し、そういうものの好き嫌いをきっかけにして特定のアイドルグループに足を踏み入れていくタイプのアイドルファンのこと。楽曲の質さえ良ければいいので、本質的にDD(=「誰でも(Daredemo)大好き(Daisuki)」の略で、特定グループの特定メンバーだけを推す(=熱心に応援すること。そのメンバーのヲタクになること。)のではなく、グループ単位でぼんやりと好きになったり、色んなグループを広く浅く応援するタイプのアイドルヲタクのこと。)であって、あるいはアイドル自体には興味がなく、そのアイドルの歌う楽曲だけ見聞きして、甲乙を付けがちな類のドルヲタ(=アイドルヲタクの略で、時に自虐的な蔑称のように自嘲的な響きを持つ。)のこと。)」的な見方でアイドル畑に手を出すようになっていた僕にとって、正直に言うとAKB系列の楽曲はあまり食指が動くタイプのものではなく、耳に残るものは多くてもあえて聴こうとするほどの価値を感じるわけでなく、どの曲もほとんどおんなじじゃんなどと長らく思っていたのですが、ここ最近の楽曲の中にはなかなか「楽曲厨」好みというか、通好み的なアプローチの曲も増えてきている傾向にあるようで、この『ハイテンション』という曲も、本来AKBグループがやってきていたようなものとは一線を画すものとして、当時の僕にとって受容され、現在もそのように僕の中では認識されています。
それで、そのようなちょっと毛色の違う作品は誰の手によるものなのだろうと、当然ながら思いまして、そこでこの目に飛び込んで来たのがこの「シライシ紗トリ」という名前だったのです。
今改めて氏のWikipediaを眺めてみると、秋元関連のアイドルで言うとそれ以前にも乃木坂46にもその初期に2曲楽曲提供しているようですが、こちらは僕のアンテナには引っかからないような有りがちなロックテイストのアイドルソングであるようで、今のダンサブルな路線とは大きく異なっているのですが、この『ハイテンション』と『風に吹かれても』には音楽的な類似性というか、連続性のようなものを感じ取ることができ、おそらく先に出た『ハイテンション』の方で秋元先生の方で何かしらの手応えを掴んでおり、ちょうど1年後、欅坂の転換点として満を持してこのダンス音楽の系譜を持ち出そうと、シライシ紗トリ氏に白羽の矢が立ったのではないかと僕の方では考えています(もちろんコンペであったり、大量のストックの中から選ばれたのでしょうから、誰々を重用しようとかいう考えはなかったかもしれませんが、ただ欅坂の新境地として、何もかも難しいことを頭から捨て去って、笑顔でただ遮二無二踊るという絵面を掲示しようという段になって、自然とシライシ氏の軽快で、かつ渋いサウンドのダンスナンバーへと自然と身体が傾いて行ったのではないかと思います)。
ともかく、今回の『風に吹かれても』を聴いたときに、なんとなくこの『ハイテンション』のことが思い出されて、ある意味で焼き直しとも言えるのですが、それは置いておいても、広く秋元系アイドルという括りで見たときの音楽の嗜好的な繋がりを感じざるを得ず、作曲はこの曲の公開当時は確か未公表だったはずですが、後々実はシライシ氏の作品だということが分かって、ああ、なら尚更そうだろうと一人で合点がいっていたことを覚えています。
それで、随分と前置きが長くなりましたが、今日の字題として、その「風に吹かれても」にしても良かったのですが、「風」という字は昨日書いたところであるし、やはりひらがなが多いのは苦手意識もあり、またこの七文字を2行に分けるにしても、「風に」と「吹かれても」に分割するのが曰く妥当であると考えられますが、そうするとその2行目は五文字となって、一行に上手く収めることに困難を覚え、どうせならかな的な散らし書きをした方がぴったりだろう、という考えもあって、今回はやめにすることにしました。
その代わりとして選んだのがご覧の通り「避雷針」という言葉です。
この『避雷針』という曲は、欅坂46『風に吹かれても』のカップリングとして、初回仕様限定盤Type-Cに収録されているもので、個人的にはタイトル曲の『風に吹かれても』よりも面白いと感じており、MV的にも色々と興味深いシーンが含まれていたり、いずれどこかでパフォーマンスが披露されると思うのですが、そのときにどのような振り付けがなされているのだろうか、というのが今から楽しみで仕方ない楽曲で、このMV自体(シングル発売前の先行公開期間が終わったため、現在はYouTubeではShort ver.でしか見れないのが残念ですが)にも細切れで、最終的なステージ上で演じられるだろう振り付けの要素は要所要所垣間見ることが出来るのですが、それでも最終稿としてのコレオグラフの全体像はまだ見えていないところもあって(これは欅坂の場合、結構良くあることで、振付師として最近よく取り上げられているTAKAHIRO先生の方針なのか、実際テレビやライブで披露する振り付けはMVで提示されているものから換骨奪胎されて、ある部分は付け加えられ、ある部分は取り外され、またある部分はMV上での音のパートとは異なるパートの音に当て直されたり、そういったコレオグラフの組み換えが特に欅坂では多く見受けられ、この最初の状態の記録としてのMVから、実際的な曲披露の時点までの細かな変化を捉え直すということがひとつの楽しみともなっており、同じ曲の披露であっても、それを披露する機会を経るごとに少しずつマイナーチェンジが施されていったりもするし、曲披露の長さ(ワンハーフか、フルかなど)もテレビ番組や場面場面で変わってきて、それに応じて振り付け自体も改めて組み換え直されたりもしているので、見るたびに微妙に異なる新しいものが見られる、というようなところもあって、分析的に見ようとしたらいくらでも見ることが出来るという点で非常に面白いアイドルでもあります。)、いよいよ初披露の映像を早く観たくて、おそらく欅坂46Showなどが一番確率が高いと思うのですが、それの放送を今か今かと、特に予定もないのに首を長くして待っているところです。
そして、この『避雷針』という楽曲は、MVやダンス以上に面白いなと思っている点があって、それは秋元先生のお書きになった歌詞にあります。
歌詞を引用するのは、著作権上色々ややこしいところもありそうなので、リンクだけ貼っておくので、興味がおありであれば読んでいただきたいのですが、まぁとりあえず読んでいただいた仮定して、先を進めますが、いかがでしょうか?、この歌詞はなかなか一読や二読しただけでは分かりにくい代物で、僕自身重箱の隅を突つくようにここに書かれた詞のすべてについて何かしらの解説を付すということは不可能なのですが、ただ何となく僕の雑感として、この歌詞は平手友梨奈さんへの秋元先生なりのラブレターというかラブコールというか、そういったある種青臭い淡い感情を想起させるところがあるように感じられました。
秋元先生の歌詞の大きな軸として「僕」と「君」というのがあるのはよく言われていることですが、欅坂にもこの「僕」と「君」の構図はやっぱりというか登場していて、でもこの欅坂的な世界観での「僕」と「君」とは、秋元先生が従来手掛けて来ていたアイドル、AKBG(グループのことをGと表記)や乃木坂の文脈における「僕」と「君」とは意図的な差別化が図られていた、と僕は考えています。
一番の代表作である「サイレントマジョリティー」と「不協和音」でそれが顕著だったのですが、端的に言うと「僕」と「君」が同性である、あるいは異性ではない、または性別を意識しないような関係性にあって、ある意味で性別を超越した次元において、無性的な「僕」が無性的な「君」に対して何かを語りかけ、主張をし、言葉を投げかける、そういったところがこれまでの秋元文法とは大きく異なるものとして響いてきて、それが功を奏してか、これまでの秋元楽曲とは違う聴こえ方で、性別的にも職業的にも広がりを持った幅広い人たちに聴かれる結果となったのだろうと、第一義的にはそう分析しています。
しかしこの『避雷針』では、その欅坂の持ち味であった「無性性」というものが影を潜め、むしろ男性の「僕」から女性の「君」への熱烈な愛情、自己犠牲的な帰依にも近い感情としての、至上の愛とでも呼ぶべき、プラトニックラブについて滔々と語り上げているように僕には聞こえ、特にその「僕」と「君」は不特定の「僕」と「君」ではなく、特定の存在、とりわけ明確に言えば、「僕」である「秋元康」から「君」である「平手友梨奈」へのこちらが恥ずかしくなるくらいの献身的な愛情が表現されているな、とこれを初めて聴いたときから感覚的にそう感じ取ってしまいました。
しかもその「秋元康」は「在りし日の秋元康」ではなく、「今現在の、老齢に差し掛かった秋元康」であるということが何となく感じられるような箇所が散見され、いわばこの『避雷針』は「金も権力もあらゆるものを手に入れた稀代の成功者である高齢男性が、可能な限りのすべての力を駆使してもどうしても成就出来ず、儚く散る定めの後生の老いらくの恋」といった印象を与える曲でしか(僕にとっては)ないわけで、そういったものを今をときめく人気アイドルに歌わせる、というこの諧謔めいた事象が何より面白く思えるわけです。
もちろん、これは一個人の意見であって、他者の読みを全否定するわけではありませんが、やはり一番重要なのは、1番のラップパートにある「大人から見れば…」のところであって、そこが決定的に「僕」と「君」との年齢的な、また立場的な距離感を確定してしまっているようで、特に注意を要する部分だと思っています。
以上、この「避雷針」にまつわるあれこれをざっと述べてみました。
書自体について言うと、今回は文字数が少ないこともあり、「隷書」という書体で書いてみたのですが、あまり書き慣れてなさが滲み出ていて、色々な書体について精進していかないといけないなと改めて思いました。
基本は「楷書」が多いと思うのですが、まだ一瞥して判読できるだろう「行書」までは取り入れていくことと思います。
また必要に応じて、その他の書体についても随時、題材との相性を見つつ採用できればなと考えていますし、本来目的である、毛筆の練習になるよう、多様な書体を自分のものに出来ることが目標でもあるので、作品全体を並べて見たとき単調にならないように努めて行きたいと思っています。
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