今日の書・7〜不滅の男
どうもこんばんは。
今日という日もあっという間に過ぎ去って、書のお時間となってしまいました。
なかなかいい題材がなかったのと、何となくそろそろやる気が出ない空気が自分の中でも湧き出して来ていて、筆を手に取るまでに手間取ったこともあって、昨日などよりは大分遅い時間になってしまいましたが、なんとか重い腰を上げ、一枚書き上げることが出来ました。
それで、本日のお題ですが、読んで字の如く「不滅の男」です。
昨日夜にニュースとして流れていて、あるいは新鮮なうちに昨日の題として取り上げることも時間的には可能だったのですが、昨日は昨日でちょっと前から温めていたネタでもあって、発売日当日に合わせれば多少そっち方面の方の目に留まることもあるかなとも思ったりして(カップリング曲だったので、多分あんまり効果はなかったかもしれませんが、後悔はありません。)、またそのニュース自体がセンシティブなところもあって、喜び勇んですぐにも取り上げるというのでは、あらぬ誤解と印象を招きかねないものでもあったので、先送りにしたという点もあったのですが、ともかく改めて詳しく申し上げますと、昨日朝早くに、シンガーソングライターで、「純音楽家」という尊称でも知られる、遠藤賢司氏(享年70)が亡くなったという訃報が、特にネットを中心に、その中でも日本のフォークロック界隈に明るい一部の音楽フリークの間で非常に大きな話題として駆け巡り、どこからともなく僕の耳にも届きました。
僕自身、遠藤賢司氏のことを格別に信奉していたというわけではありませんが、大学生の頃に古い洋楽にも聞き飽き、日本の昔のロックなどにも手を伸ばしていた頃、氏の作品群に出会い、アルバムの数がそれほど多くないこともあって、初期作から1枚ずつ集めて行くというようなことも試みていたこともあって、『niyago』や『満足できるかな』などの盤は特に気に入り、気分が何となく落ち込んでて、どうせならとことんまで気を滅入らせてやろう、などという考えが頭に舞い降りてきたときなどは、このどちらかをCDですがかけ、暗くした部屋の硬いカウチソファーの上に寝転がりながら、ボーッと虚空を見つめつつ、エンケン氏の掻き鳴らすギターと、嗄れて音程も不明瞭な歌声に耳を澄ませ、なんとなく深刻でなんとなくあっけらかんとしてなんとなく可愛らしくなんとなく笑いが込み上げてきて、それでいてなんとなくサスペンスな空気も感じられる歌詞の世界を、その暗闇の上に思い浮かべては、いつの間にか眠りに就く、ということを繰り返していたものです。
特に好きな曲は、『niyago』の冒頭に収録されている『夜汽車のブルース』で、多分初めてエンケン氏の世界に触れたのもこの曲であったので、エンケン氏に関するすべてのイメージが、この一曲によって一挙に僕の中で形作られて、それがこの10年くらい経った今でもほとんど変わることがないような気もするのですが、ともあれ僕の中で「遠藤賢司」と言えば『カレーライス』でも『満足できるかな』でもなく、まず第一にこの『夜汽車のブルース』となっているくらいには、強い印象を与えられた一曲でした。
色々バージョン違いがあったり、多分これを演奏するたびにちょっとずつというか全くというか異なる曲として人々に聴かれていたんじゃないかと、いくつかの音源や動画を見て思ったりもするのですが、やはり自分で所有しており、事あるごとに上記のようなやり方で再生していたのが、『niyago』収録の『夜汽車のブルース』だったので、僕の中での本歌はその『niyago』版の『夜汽車のブルース』ということになります。
個人的な話なのですが、最近ひょんな必要に駆られてレコードプレーヤー(壁掛け型の本当に粗末なものですが)を手に入れて以来、LPレコードにようやくのこと興味というか、所有する意味が見出されたため、近場のレコード店などを見て回るようになっていたところ、ちょうど来月この『niyago』の復刻盤レコードが発売されるという情報が目に入ったので、今回リンクを貼らせていただきました。
『夜汽車のブルース』以外に僕の好きな曲に『ほんとだよ』があります。
これは元々『満足できるかな』に収録されていた曲なのですが、こちらも同じく様々なバージョンが存在しているようで、中でも僕の一番好きなバージョンは、スタジオアルバムとしてセルフカバーでリニューアルされた、『東京ワッショイ』に収録されているスペーシーなバージョンの『ほんとだよ』です。
YouTubeはわりと昔のレコードの音源なんかはアップロードされていて重宝することが多いのですが、こと遠藤賢司氏に関しては重点的な削除対象となっているのか、あまりお目にかかることが出来なくて、音源版に触れる機会が少なくなっているのが現状ですが(著作権意識的にはもちろんそれが正しいわけですが(笑))、それでもライブ映像なんかは色々と不思議なものが多くて、僕のような者でも、全盛期の演奏や雰囲気、老成感というか、「純音楽家」の「純音楽家」たる片鱗、「純音楽家」としての矜持みたいなものをひしひしと感じることが出来て、時折思い出したように検索してしまうのですが、その度に新しい発見もあったり、とにかく歌声の宇宙を吹きよぎる風のような響きやギター一本で空間的な広がりを感じさせるところなどに聴き惚れて、時間を忘れて次々観てしまうし、まだまだ観たことのない映像も見つかるところが面白かったりします。
これなどもついさっき、「遠藤賢司」ではなく、ローマ字の「kenji endou」で調べて発見した映像ですが、昔はNHKでも妙に尖った企画というか、アヴァンギャルドな映像を残していたんだな、ということも思わされるし、そもそも遠藤賢司氏のようなタイプの「純音楽家」アーティストが普通にテレビで演奏を披露していた、というそれだけで時代が違ったんだなぁと思い知らされるところもあって、昨今のテレビ番組の大衆迎合的で、芸術性や奇異性を毛嫌う傾向に改めて辟易とさせられているところです。
それはさておき、今晩は特に取り止めもなくなってしまったので、そろそろ締めとさせていただきたいと思います。
正直言うと、ほんの昨日まで遠藤賢司氏のことをほぼほぼ思い出すことがなくて、今日の記事はいつもより饒舌さが足りなく、色々と躓きながら書いていたので、流暢に筆が走る、ということはなかったのですが、それでも何となく長く書いているのが自分でもおかしく思えます。
ただ、こうして思い返すことももうほとんど
なくなるのかと考えると、最後に弔い代わりに何か書き残すことにそれなりの意味はあるようにも感じられて、少なくともこの死の翌日にそれについて何かしら書いたということ自体が、「遠藤賢司」という存在に纏わる僕独自の記憶ともなるわけで、翻っては氏を悼む契機としてこのブログがいつの日か機能することになるやもしれません。
結局、氏の「不滅の男」という生涯における一大テーゼは、物理的には反証されてしまったわけですが、それでも氏について誰かが何かを語り、書き綴り、伝え聞き、それでさらにまた新しい人たちに対して新鮮な存在として影響を与える、そのことによって、「不滅の男」というひとつの遺志は概念的に、形而上学的に、宇宙的に成就されることになるのではないかという思いから、僕もその一端を担うため、このブログをものすことが出来、ひとまず此処に満足を得て、眠りに就きたいと思います。
貘が眠ってる、KUBA。
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