今日の書・10〜君たちはどう生きるか
こんばんは。
と言って、もう少ししたら、というかこれをおしまいまで書き上げる頃には夜が明けかけている可能性もあるのですが、とにかく今日は色々と出遅れてしまい、昨日のブログで宣言しておいた通り、今日の書は題材も早くに決まってしまったこともあって、昨日のうちに事のついでで書き終えてしまっていたので、それが却ってこの10日ほどかけて出来上がって来ていたルーティンワークというものにイレギュラーを起こして、あるいは軽い油断めいたものを心に与え、隙を設けさせ、つまり簡単に言うと、余裕を持ちすぎたせいで怠け心が発揮され、どうにもブログ本文を書くことでこの書にちょっとした正当性を持たせるという行いがなおざり(おざなり?)になり、後回しにしたくなってしまって、ようやくこの通信制限明けの時刻まで持ち越されてしまいました(この100kbpsという恐るべきペナルティーに終始苛立っていたため、適当な調べ物すら満足に出来ず、したがって何らかの文章に仕立て上げる気が起こらなかったというのも半分はあります)。
それで、今日の書の話になりますが、皆様、例のニュースはお聞きになったでしょうか。
そうです、あの「宮崎駿監督現役復帰」という、これまでに何度か聞き覚えのあるニュースです。
ネットコミュニティーでは、宮崎監督の引退・復帰の引っ切り無しに繰り返されている様を揶揄するようなコピペが普及しており(ここには詳しく書きませんが、何年の何とかという作品の後、インタビュー等でどうたらという発言を残しつつ、引退を宣言した、みたいな事象を十数回分ほど羅列してあるもので、軽くググればNAVERまとめなどで出てくると思われますが、つい最近そのコピペを取り上げた『水曜日のダウンタウン』という番組が、全く裏取りせず、さも真実の発言であるかのように上記内容を放送してしまったため、ジブリ側(監督側)からクレームが入った、と言ったニュースも記憶に新しいところであります)、そのコピペに新たな一行が加えられることになっただろうと、アレな意味で感慨深かったりもするのですが、とにかく、確か前作『風立ちぬ』において、アニメ映画作家人生をかけた集大成的作品を残して、当時の記者会見では、「何度もやめるといって騒ぎを起こして来た人間なので、どうせまただろうと思われていますが、今回は本気です」などとして完全引退宣言していたものを、今調べるとどうやら今年の2月に引退撤回宣言をしていたようですが、ともあれ、どのような作品を鋭意制作中であるか、公表されたことによって、引退撤回宣言自体が裏付けられることになり、全国のジブリファン、アニメファンの間では、そっと胸を撫で下ろすというか、実際どういった作品として仕上がるのだろう、と今から色々と妄想し始めている、そのような声が方々で上がっているようです。
僕は特別ジブリに思い入れがあるわけでもありませんが、それでも世間一般の日本で生まれ育った人たち同様、毎年夏休みの時期などになると、金曜ロードショーが毎週のようにジブリ映画を放送したりするので、それを見るともなく見ていて、おそらくひと通りの長編作品は、部分的にでも目にする機会はあったと思いますし、確か『もののけ姫』などは自分が子供の頃にロードショーで放映されたので、観に行ったような記憶があって、僕自身のほとんど初めてに近い映画体験だったかもしれません(本当の初体験は『ゴジラ対デストロイア』だったかもしれませんが、所謂「大人向け」というか、語弊を恐れず言えば、「大人の視聴に耐えうる」作品を映画館まで訪れて能動的に観たのは、『もののけ姫』あたりが最初だったと思われます)。
今回発表された内容によると、宮崎駿監督の最新長編アニメのタイトルは『君たちはどう生きるか』となる予定であって、そのタイトルは1937年に吉野源三郎が発表した同名の、児童向け小説から取られており、「その本が主人公にとって大きな意味を持つ」内容になるとのことで、要は、その小説をそっくりそのままアニメ映像化するわけではなく、おそらく、主人公が映画内でその小説を読むなどしてそれに直接的に触れることから、ストーリーが始まって行く、みたいな話になる、ということなのだと思います。
一応僕も当時のツレがジブリに目がなかったことなどもあり、映画公開中に世評に半ば乗せられつつ『風立ちぬ』を観に行ったクチなのですが、あの作品も堀辰雄の同名小説からタイトルを取り、内容的にもある程度沿う部分もあったのかと記憶していますが、今作は同名小説を「映画内小説」的な扱いで、入れ子構造をあらかじめ持ち出している、ということになるのではないかと現時点では考えられることでしょう。
だから何だ、という感じでもあるでしょうが、ある意味で「教養小説(Bildungsroman)」としての本筋を採用しつつ、その重要な舞台装置として、原著である吉野版『君たちはどう生きるか』が取り上げられ、そもそもこの吉野版の『君たちはどう生きるか』自体がまさに「教養小説」であるようなので(僕自身は未読ですが、Wikipediaのあらすじを読む限り、若き主人公とおじとの間での手紙のやり取りが、ある種のフックとなっていて、その手紙での交流を通じて、主人公が感化され、啓蒙され、「教養」を身につけていく過程が描かれているようです)、その大昔の「教養小説」を読むことで「教養」を身に付けていく、という「教養小説」(つまり、いわば「教養教養小説」)となると予想され、さらに、原著では、最後に「君たちはどう生きるか」という言葉を小説内世界の外部に存在するストーリーテラーが、小説内世界の外部のそのまた外部にある読者へと投げかける、というかなり古典的とも言える手法で締められているらしく、それはそのままこの映画の文脈において平行移動させると、映画の紡ぎ手(=宮崎駿)が映画外の視聴者たちに対し「君たちはどう生きるか」という使い古された命題を改めて、明示的にであれ暗示的にであれ(少なくともこれをタイトルにし、舞台装置にした時点でアレですが←)突き付ける、という結末が映画を観る前どころか、作る前にもうすでに透けて見えてしまうようで、幾分鼻白んでしまうところもありますが、ジブリ的なメッセージは常に分かりやすいものが大部を占めてはいるので、それはそれでよく、むしろどのような映像表現であったり、CGと手描きの融合だったり、そういったものが時代の変化に合っているか、あるいは合っていないとして、その完成物が現在の時流に対してどのような影響を与えうるか、といった諸々は映画フリークにとっては依然興味深いところではあるでしょうし、ビジュアルイメージが定まってから、改めてそれを観に行く価値があるかなしか、個人的に判定することになると思っています(話は少し逸れますが、この『君たちはどう生きるか』を最近書店でよく見かける気がしたのですが、ちょうど今年に入って漫画化されたらしく、その関連で平積み展開やポップ戦略が俄かに行われていたようで、その大元を辿ると、日本テレビの『世界一受けたい授業』で同書が取り上げられ、ニワカのブームが発生していたという話があって、日本テレビとジブリはズブズブなんだなぁ、という陰謀論めいた感想も何処からともなく聞こえてくるようです(苦笑))。
そういった内容はさておき、ジブリと言えば、やはり、毎作品ごとに記憶に残るキャッチコピーが付されており、タイトルロゴを含め、レタリングにこだわりを持っているような印象が何となくあるのですが、たとえばこの『風立ちぬ』の「生きねば。」という筆文字、宮崎駿監督の右腕とも本体とも言えるような盟友(?)、鈴木敏夫プロデューサーによるものらしいですが、この「書」はご本人の人柄が滲み出ているようで、書家を目指している身としては、独自の書法をものにしている点でやはり憧れる部分があります。
調べてみると、鈴木敏夫氏は書道の個展を開くなど、「書道家」としてもご活躍なさっているようで、よく見かける特徴的なペン字のライナーノーツ的なリリース文も、ひと目見て「鈴木氏だな」、というかむしろ「ジブリだな」というある種の名刺代わりとして、ジブリ作品の周辺で大きな機能を果たしているようにも見えるし、ある面ではこのジブリの世界観、「自然×超自然」みたいな摩訶不思議な世界を作り上げる上でひと役買っているような、長年知らず知らずに目に入れて来たせいか、刷り込みのようなものも起こって、「ジブリそのもの」という感覚も氏の筆を見るだけで呼び覚まされるようになっています。
僕がこのブログを始めたきっかけはズバリ、このジブリの文字のような、自分らしい、自分にしか書けない、一瞥してそれと分かるような、自分だけのオリジナルな書法を築き上げたい、というものであるので、鈴木氏の文字もいつかは研究したいな、という思いもあって、このブログ開始後、早い段階で取り上げられたのは不思議な縁ですが、ともかく、鈴木氏よりも先にとりあえず「君たちはどう生きるか」と、ほとんど特徴のない書き振りで書いてみておいたので、何年かして、鈴木氏がこのタイトルを筆書きしてくれるのを楽しみに思いつつ、今日はブログの締めとさせていただきます。
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